はじめに  宣告を受けて・・
 幼児期   個性的な子供
 学童期   学校では?  自傷行為  人との関わり  興味を持つ事
 成人期   仕事  人との関わり
 全般期   頭の中ぐるぐる  今、思うこと・・・


ここでは、息子の診断に専門医の門をくぐった際、同時に母親である私までもが宣告を受けた時の事を書いてます。


◇幼児期の私
個性的な子供

小さい頃から、とても育てにくい子だったと、良く両親に言われて育ってきました。

3人姉妹の長女として未熟児で生まれ、小さい頃から元気が良いのがとりえだと言われていましたが、今となって良く良く考えてみると、その元気の良さ、自分勝手な行動、他の色んな事・・・は、ADHDならではのものだとようやく説明がついた!と言う風に理解してきています。
何となく、「謎が解けた!」と言う言葉が、もしかしたらぴったりなのかもしれません。

小さい頃からのADHDだろうと思える特徴を私の場合で挙げてみます。

 赤ちゃんの頃。

まぁそれは良く泣く子だったようです。
かまってもらえないと、泣き、母が背中におんぶしても自分が何かしたい事(外に出たい、おなかすいた)があると、母の髪の毛を引っ張ったり、叩いたりしながら自己主張を繰り返していたそうです。

 歩けるようになった頃。

母と一緒に買い物に出掛けます。
母がこっち行くよ〜と言うと、わざとなのかどうなのかいまだにわかりませんが、必ず逆方向に走り出していたそうです。
スーパーなどでお菓子や食べ物を触りまくるのはあたり前。
ベビーカーに乗せて固定(歩き回らないように)していても、静かになったなぁと思って前を見てみると、口の中にはお菓子や果物やソーセージが入っていたそうな。(-。−;)
そして、欲しいものがあると、道路でも床でも転がって泣き叫び、平気で道路に飛び出して行っていたそうです。

 3歳くらいの頃。

ようやく乗れるのようになった三輪車。
家をこっそり抜け出し、母が探し回っても見つからずそう言う時に掛かって来た一本の電話・・・・・
それは隣町の交番から。
私は、交番で保護され、そこで何やらおいしいおやつをもらって食べていたのをいまだ覚えています。
自分の中ではかなり冒険&楽しい事だったんですね。

 大物になるぞ!

まだ幼稚園にも行ってない頃・・・
近所には、同じくらいの年頃の子がたくさんいた。
毎日のように一緒に遊んでいたらしいが、私の癖の一つの中に、「自分の欲求が通らなければ相手を傷つける」と言う事があったらしい。

ADHDで言う衝動性の部分ですね。

当然、段々と一緒に遊ぶ子もいなくなる。
家の中にいるとこんな声が聞こえてきていたらしい。

「今、Mamanちゃんが遊んでないから、今のうちに遊んでおきなさい!」

・・・・・・・
母は涙していたらしい。
今なら私もその気持ちは痛いほどよ〜く分かる・・・

「お母さんがした苦労・・・私も追っかけ同じ苦労をしているよ(苦笑)」

それでも、近所に住む当時小学校の校長先生をしていた人は、私の事を、この子は将来大物になるぞ!と両親に言っていたそうだ。
どう言う意味だったんだろ・・・

 4歳くらいの頃。

信号を渡る、信号待ちをすると言う事がかなり苦手だったらしく、自分の勝手な判断で、路肩に停止している車の横から道路を横断しようとし、飛び出した瞬間、別の路肩でお客を乗せようとブレーキを掛けながらスピードを落として走って来たタクシーと激突!
所謂交通事故というやつですね。
状況判断が出来ないと言うのと、我慢が出来ないと言う事だったんでしょう。

 幼稚園での出来事。

お友達大好きな私は、誰とでも友達になろうと近づいて行きます。
でも・・・・

実際、声を掛けてみたものの、その後どうやってお友達になればいいのかが分からず・・・・
とてもおしゃべりだった私は、1人で色んな事を空想したり、創造したりしていました。

で、その中でも私の中で一番強く印象に残っているのが、「いじめっこは許さない!」です。
クラスの中で、いじめられやすい子って当時からいました。
男の子がからかったりいじめて泣いたりする子を守ってやるぞ!と言う変な正義感を掲げ、そう言ういじめっ子に対して拳を振るう日々・・(-。−;)

 姉妹がいた・・・

その頃には、私は3姉妹の長女になってました。
私5歳・すぐ下の妹3歳・一番下の妹1歳。

すぐ下の妹の存在は、ある程度大きくなるまで私の中にはありませんでした。
一緒に遊ぶ事もない。
ただ、家の中では私の欲求のままの行動に1人振り回されていた犠牲者でもありました。